中川
うーん・・・。
この時は自分がコートで出来る仕事が減ってきたってことがきっかけですかね。
アメリカ挑戦時代に両半月板を同じ時期に断裂してしまったことあったんですが、当時まだ若くて、チームにも所属していないしトレーナーもいないしから完全に自己流でやっていました。
身体の状況なんて何も考えずにやるしかないから休まずにプレーをし続けていました。
ただ、ある時気が付いたんですが、可動域がすごく悪くなっていて、他の箇所にもダメージが生じていました。
その結果、動きだけでなく、一対一やドライブを行う筋肉も衰えてきて、目の前で後輩のプロ選手達がバリバリやっているのを見て、完全自分がスコアラーとして下手になったのを自覚しました。
一対一が出来なくなったので、当然違うところで生き抜く術を探しました。
中川
今までガードとして色々失敗をしてきたので、そこを強化したいという研究心はずっとありました。
身体のケアにもっと時間を注ぐべき時も研究ばかりしていましたね。
結果、PGとして三菱を出て、31歳を過ぎた辺りから良くなってきた感覚はありましたね。
ただ次のチームは環境が良い方ではなかったんですよ。
今まで1年中冷暖房完備の体育館だったのが、夏場はサウナ、冬場は冷蔵庫って環境でバスケし始めたら一気に負担が生じちゃいました。
元々、可動域ないやつが脚の全てのパーツを順番に肉離れまでしちゃって、ほんと動けなくなりました。
若い時みたいに、やれば抜けるんですよ。
ただ、それやった瞬間に肉離れを起こしてしまうので、もうやっちゃダメなんだと感じましたね。
今のNBAのCP3(クリス・ポール/オクラホマシティー・サンダー所属)みたいな感じですね。
CP3もここ何年かプレイオフで肉離れをしちゃってますし、若いときのアグレッシブなプレーは全然しないでしょ?
ああなっちゃったら潮時だな、というのは正直思いますね。
それにしても全力でできないのはきつい・・・
中川
そこからまた頑張って33歳の時にはある程度のレベルまで戻りました。
またプレーが出来るようになったんですけど、試合でレイアップに行った際に、空中で相手選手とぶつかってバランスを崩して着地しちゃって、若い時に痛めて放置してきた半月板をまたやっちゃったんですよ。
そこから1年くらいはごまかして片脚でやってたんですけど、無理してやってたら軟骨がすり減るどころか完全に剥がれて・・・
大腿骨に大きな穴が開くほどの大怪我になってしまいました。
そして、御存じのとおり骨移植をしたって感じですね。
中川
そうです。
半月板は断裂してもうどこかにいっていて全く機能をしていなかったようなんですが、なんとかまだ使えるよう縫い合わせてもらったんですけど、今もトレーニングしないと痛くなって。
なので、今もウェイトトレーニングやフットワークは行っています。
2週間やらないと本当にすぐ痛くなってまともに歩けなくなっちゃうんですよ。
中川
132日間病院に入院してリハビリしていました。長かったですね。
これは裏話なんですが、入院時期がちょうど大学院の2年目で修士論文を書いていたタイミングもあって、退院日にそのまま大学に行ってして修論提出っていうね(笑)
中川
狙っていた節はあります(笑)
予定通りだったのでしょうか?
中川
復帰は1年後くらいと先生からは言われていたんですが、完全にシーズンを全休するのはオファーしていただいた小野さん(小野秀二HC)に悪いし、復帰戦の日が嫁の誕生日と言うのもあって、無茶して4か月そこらで試合に出ました。
そのために1秒も無駄にしないようリハビリやケア、食事管理も徹底していました。
タイムスケジュールもこれまでの人生で一番細かく調整してました。
中川
とりあえず2台しかないリハビリ室の自転車の1台は完全に占領していましたね(笑)
自転車の許可が出てからはずっと漕いでいました。
地球1周は余裕で回ったんじゃないですかね?
正直、復帰までめちゃくちゃ速かったので、いったいどんな事をしたんだ!?
というのは疑問でした。
手術もリハビリも相当よかったんだろうなと思ってドキュメントも見てました。
中川
今だから話せるのですが、あの復帰戦の日、反対の脚のアキレス腱が超痛かったんですよ。
多分、反対側でかばっていた代償が出たんでしょうね。
先生からもアキレス腱やっちゃうよ!なんて言われるくらいでした。
ただ、男にはやらなければいけない時があるので。
中川
そう。
132日粘れたのもそこをゴールに標準を合わしてきたからで。
出場した試合では何にも出来ませんでしたけど、出たっていう事実を無理やり取りに行ったっ感じですよね。
あればかりは若いときと一緒で、超ギャンブルでした。
絶対にやっちゃダメです。良い子は絶対に真似しちゃダメです。(笑)
復帰戦にそんな背景があったんですね。
ただ、やはりかっこいいです。美談にしちゃいけないんでしょうが、やはり侍ですね。
中川
ただ有り得なく、無謀な行動をしちゃっただけですよ(笑)
中川
正直、小野さんが辞められたタイミングで自分も引退する選択肢もあったんですが、復帰して半年しか経過していなかったので、チームに迷惑をかけた分、もう少し何か恩返ししないとな・・・というのがありました。
ただ翌シーズン前の天皇杯の予選で半月板をまたやってしまって・・・。
それがもう背中を押したというか・・・
40歳まではやるのかなーというのはあったんですけど、目標もなく、ただ続けるより身体と向き合った結果、引退しようと決心しました。
引退してしばらくは何もオファーがなかたんですが、ある日突然今の大学のお話があって就任することに決めました。
引退当時はすごくさみしく悲しかったのを覚えています。
元々、セカンドキャリアなんかは考えられていたんですか?
中川
せっかく大学院も修了しましたし、何となく大学で教えたいというのはありました。
なので、本当に運が良かったとしか言えないです。
中川
勿論めちゃくちゃ多いですよ!
僕は選手会の理事もやっていましたが、理事会でそうゆう悩みをぶちまける選手もいるほどです。
印象として、高校・大学での指導やプロコーチに就くことが多いですね。
中川
検討していなかった訳ではないです。
ただ、こんな事を言うと夢がないように捉えられるかもですが、ハイリスク・ノーリターンなんですね。
選手はまだリスクは低いですが、例えばチームが低迷した時にすぐさまカットされるのは監督やコーチです。
中川
こればかりは夢や野心がないとできない仕事だなと思います。
一生懸命頑張ってもチームの成績が悪ければ、色々なところからめちゃくちゃ文句も言われますから。
自分の限界をどう超えるか・・・その経験があるのとないのとでは違うという事ですね。
バスケットカウントさんの記事で、最後の時期は“PGとして感覚が研ぎ澄まされていた“とインタビューでお答えされていました。
これはかなり失礼な質問なのですが、ケガをした偶然の産物といった感じなのでしょうか?