ちとせ、ちくわ被るってよ

「仕事をたたもうと思っている」

 

親父にこう告げられたのは高校2年生。

秋に差し掛かる頃だった。

 

 

僕の実家はちくわ屋だった。

僕は舞鶴に生まれ、舞鶴で育った。

生まれたときから実家はちくわ屋だった。

 

ひいおじいちゃんの代から続く、舞鶴では有名なちくわ屋だったらしい。

 

今でも患者さんに名前を名乗ると

「ちくわ屋さんの所の子か?」

なんて言われる事がある。

 

親戚も政治に関わる仕事をしていたのもあって有名だった。

 

幼稚園時代は何も考えず過ごしていた。

幼稚園時代に過ごした家はちくわ屋の工場の2Fで親父が働いている姿はすぐに見える環境だった。

 

工場の音がすごく大きく、熱気で熱い。

汗水たらしながら働く親父の姿がいまだに目に浮かぶ。

 

 

小学校に上がってもなに不自由なく過ごしていた。

思えば本当に何でも簡単に手に入っていたと思う。

今では考えられない。

 

中学校に上がる前、友達が持っていた漫画SLAM DUNKを読みバスケをしたくなる。

当時、通っていた小学校は全校生徒が約70人ほど。

部活動なんてない学校だったが、なぜかクラブチームでバドミントンクラブがあった。

僕の同級生の活発な男の達は入部していた。

 

母親強く勧められたが僕はバスケがしたかったのでずっと拒否していた。

ミニバスをしたかったが、親父は朝早くから仕事。

 

母親も仕事を手伝っていたので送迎なんて無理だ!なんて何度も何度もだめだと言われた。

(バドミントンは何故よかったのか・・・いまだに不明)

 

小学校高学年の時はちくわ屋がある工場の外で一人でボールをついていた。

思えば、ほぼ毎週、親父の仕事に着いていき、ドリブルをついてた。

 

中学校に入り念願のバスケ部に

正直、SLAM DUNKの影響も大きいがバスケ部はモテると思い入部した。

先輩もやさしく、思惑通りモテた。

 

そして当時は不良っぽいのがかっこいい時代。

不良とまではいかなかったと思うが、一緒にいる友達は中々目立つ奴らばかり。

 

注意や呼び出しも受け、母親には何度も苦言を言われたが親父は何も言わなかった。

 

親父の朝は早かった。

朝4時前には仕事に行っていた。

朝はコーヒーと共に煙草を吸う。

これが朝のルーティーンだった。

 

中学生ながら親父はすげーなんて思っていた。

 

 

高校時代

尚更、バスケに熱中していた僕はバスケバスケバスケバスケバスケバスケバス(以下略)

の生活を送っていた。

部活の自主練などをして帰ると8時や9時なんてざらで家族との会話もあまりなくなっていた時期だった。

 

 

2年生の夏。

僕は半月板を損傷した。

しかも試合の1週間前。

 

このケガが今、理学療法士になっているきっかけになっているので今はよかったと思う。

 

復帰に向けてトレーニングもし、そろそろ復帰かと思っていた頃。

(当時はリハビリに通っていたが、中々曖昧だった)

 

親父に話があると言われた。

何か嫌な予感がすると思った。

普段、親父と会話してもこんな切り出し方をしてきたのは初めてだったから。

 

「仕事を畳もうと思っている」

「え?どういうこと?」

「辞めるって事」

 

高校生のない頭ではパニックに陥っていた。

 

うちの家庭はやばいのか・・・

どうなっているのか・・・

不安と動揺を隠せていなかったと思う。

 

今更こんなことを書いているのを見られたら母親に怒られるかもしれないが・・・

 

当時、工場の部品を取り換えに莫大なお金がかかるといった事を聞いた。

それを取り換えても、年々売上が落ちてきている状態で取り返せるのか?

話し合いの末、じゃあやめようと決断したことを聞いた。

 

 

当時の事を思い返すと、小さい時から過ごしていたちくわ屋がなくなるということがショックでたまらなかった。

 

仕事を辞めたら無一文だ。

家庭がやばい。

僕の下には3人兄弟がいるのに・・。

 

と頭の悪い高校生の僕は部活を辞めてバイトをしようと決心した。

親父にそのことを伝えると、すごい剣幕で怒られた。

 

「子供が何心配しとんな。お前は黙ってバスケをしとけ」

 

バスケは黙って出来ないが、部活を辞めるという選択肢がこれでなくなった。

多分、辞めたらもっと怒られるんだろうな・・・という思いが勝った。うん。

 

 

親父のこの一言(恐怖)がなかったらバスケは辞めていたと思う。

無事IH予選が終わり、引退した。

 

ウィンターカップにも残るという選択肢もあったが、僕はバイトを選んだ。

進路調査では進学から就職に変更していた。

 

母親は進学しろとずっと言っていたが頑なに拒んでいた。

また親父から呼び出され、ああまた怒られるのか・・・なんて思っていたが

 

「家の事は考えんと好きにしろ。進学したらええやろ」

 

この一言で進学にまた変更し、理学療法士の養成校に入学する経緯に至った。

そして大学で遊ぶというくそ息子なのです。

 

現在

ではなぜ、いまちくわを被っているのか。

ここまで書いたようにちくわ屋だったから、と言うのは勿論あります。

 

僕にとって親父が大きな存在です。

仕事を辞めて苦しいはずなのにバスケを続けさせてくれた。

進学もさせてくれた。

 

勿論、母親にも感謝していますが親父の一言が無ければ今が無いと思っています。

別に親父元気です。今も生きていますし。

 

ただ、たばこの吸い過ぎで肺はダメージを受け、呼吸状態は悪い状態です。

入院している親父をみた時に、何にも僕は返せていないな・・・

 

と感じました。

 

 

僕にとって親父は憧れで越えなければならない存在だと思っています。

それはわが子に対してですが。

 

今の活動を通じて、僕が目立てば親父の目に映るのではないか。

ちくわをシンボルに活動しているバスケバカが親父の目に・・・。

 

 

ちくわに育ててもらった恩返しがしたい。

ただそれだけです。

 

これがちくわがバスケットボールを持ってる理由です。

 

ちくわ
ちとせ、ちくわ被るってよ。

 

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