西村
高校まで野球をやっていました。
その時のチームはケガ人が多く、何とかならないかと調べていた時にトレーナーという職業を知りました。
最初は理学療法士の学校に進学しようと受けていたのですが、補欠合格で一つ受かりました。同時に別の一般の大学にに受かっていてそっちを選びました。
どうして一般の学校を選ばれたのでしょうか?
西村
当時は大学に進めば何かしらスポーツに関わる仕事ができるとばかり思っていました。
それが良い方向に進んだわけですね。
西村
偶然も重なったのですが、僕が入学した年にトレーナーのサークルというのが4回生の先輩が作られました。
それを聞いてそのトレーナーサークルに入って勉強を始めました。
サークルですが指導教員もいて、環境も整っていました。
本格的ですね。
西村
でしょう。
その指導教員の先生がバスケ部の監督だったのが最初のご縁ですね。
バスケ部とトレーニングサークルと合同合宿なんかもして、テーピングやケアなんかもさせてもらいました。
当時ですと理学療法士の学校に進まれていたらまた違った結果になっていたかもしれませんね。
西村
そうですね。
今でこそスポーツ現場に理学療法士の方が増えましたが、当時はリハビリの先生=スポーツといった安易な考えで進学を考えていたので。
また違った結果になっていたかもしれませんね。
そこからどういった経緯で進学されたのでしょうか。
西村
大学3回生の時に女バスに関わらせてもらいました。
学生がやっている程度のトレーナーだったので、その場にいるケガをしている選手を治せなかったりして悔しい思いをしてました。
正直、何の力にもなっていなかったと思います。
そこで自分の武器を持ちたいという経緯で進みました。
なるほど。
また大学のトレーナーを経てからパナソニックにもトレーナーとして関わられていました。
これもどういった経緯でなのでしょうか。
西村
学校を卒業した後、接骨院で働いていました。
その後、退職し大学のチームドクターがいる整形外科に声を掛けていただき、勤務させていただきました。
そこからトレーナーと訪問マッサージでこれからやって行こう!と独立を考えていたんですよ。
そのタイミングで奥さんの弟が関わっている団体の理事に大阪のスポーツ関係の方がいて、丁度パナソニックのトレーナーを探している時で
“義理兄さんトレーナーじゃなかったか?“
といった話から声をかけてもらいました。
またすごいご縁ですね!
西村
本当にそう思います。
それで面接を受けに行かせていただいたのですが、合格をいただきましてパナソニックで働かせてもらうことになりました。
ちなみに、結婚1年目のタイミングだったのですが数ヶ月単身で大阪へ行きました。
それはすごいバタバタだったのでは・・!
西村
本当大変でしたね。
当時は関東にいましたからいきなり近畿へ引っ越しでしたしね。
そこから3年間パナソニックでお仕事をされてから、日本では初めての専任トレーナーという形で日本バスケットボール協会へ関わられています。
これもどういった経緯だったのでしょうか。
西村
実はパナソニック2年目に日本バスケットボール協会の医科学部会から電話がありました。
専任トレーナーという役職を作るからやりませんか、とお話いただいたのですがまだ2シーズン目も開幕していないタイミングで当時はお断りさせていただきました。
お断りされていたんですね!ビックリしました!
西村
でも1年後の同じ時期に全く同じ内容の電話がかかってきたんですよ。
(笑)
西村
やる人いないのかよ!!
っと心の中でツッコミを入れながらお話を聞いていたのを思い出します(笑)
女子の方は1年先に運用を開始できたのですが、男子の方が上手く進めれなかったみたいで・・タイミングも良くて当時、僕も東京へ戻りたいという気持ちが出てきて2回目のお誘いで受ける事に決めました。
なるほど。
こうして日本代表の専任トレーナーが誕生したんですね。
具体的に専任トレーナーはどういった内容のお仕事をされていたのでしょうか。
西村
それまでの日本代表のトレーナーはサポートトレーナーという形で数名関わっていました。
スケジュールが合うトレーナーがこの大会は帯同する、といった形で関わっていたんですよ。
所謂スポットで日本代表に関わっていたのが、専任トレーナーは年間通して代表に関わるといった感じです。
基本的にはA代表がメインですが、時間に余裕がある時はアンダーカテゴリーにも関わっていました。
試合時期はA代表とアンダーカテゴリーって被っていませんでしたっけ?
西村
ガッツリでした。
でもコロコロ現場のトレーナーが変わるのってあまり良くないじゃないですか。
それこそアンダーカテゴリーの選手なんかはおじさんとお話するだけでも緊張するし信頼関係がないと話してくれないですよね。
なので基本的には全カテゴリーのサポートトレーナーに、この1年はこのカテゴリーをお願いします!といったシステムにさせてもらいました。
あるトレーナーがメインでアンダーカテゴリーに関わって、僕はサポートに入るといった形を作りました。
サポートトレーナーはメインのトレーナーが働きやすい様に物品なんかの準備をしたり雑務を行ったりしていました。
それがA代表になると今度は僕がメインになるので、逆になるといった感じです。
その方が確かにやりやすそうですね。
西村
その方が現場も困らないので上手く回っていたんじゃないかと思います。
ありがとうございます。
ちなみに今現在、デンソーアイリスでご活躍されていますが、治療院の方はどうされているんでしょうか?
西村
実は院の方は基本的にスタッフに任せているんですよ。
2020年は2回ほどしか出勤していないんですよね。
コロナウイルスの影響もあって帰れていないんです。
ちなみにどのくらい帰られていなかったんでしょうか。
西村
5ヶ月ですね。
その間に子供たちのバスケがめちゃくちゃ上手くなっていてビックリしました!
将来は親子で日本代表で一緒に、何て事もあるかもしれませんね!
どうでしょう。
そうなったら面白いですけどね。
今後は日本代表のお仕事がオファーがあれば検討されますか?
西村
うーん難しい質問ですね。
正直な話、デンソーにも就任するのも迷ったんですよ。
そうなんですか!?
西村
高校の男女のウィンターカップ、女子のインカレ、男子のトップリーグ、そして日本代表、子供の全ミニはカウントしていいか分かりませんがすべてのカテゴリーのキャリアは積ませてもらったと思っています。
そんな奴がいつまでも現場にいると若い子たちが入る枠がないじゃないですか。
そんな気持ちもあったので国内はいいかな・・なんて思っていたのですが、ご縁あって声をかけてもらったんですよ。
たまたま現場に戻りたいなという気持ちになっていた時のオファーだったので合致したというのがあります。
なので院に関しても当初は畳む予定でしたが、患者さんからの要望もあり残す事に決めて今こういった形でお仕事をさせてもらっています。
代表に関してはその時のタイミングなんかもあるかもしれませんね。
息子さんが代表に選出された際は是非(笑)
西村
でも次は国外かな。
京都ハンナリーズに所属していた中村選手も今KBLで活躍していますし韓国とかもいいですね。
韓国のアンダーカテゴリーの選手とも関わりがあったりするので、そういった事も考えています。
全てはご縁ですね。
皆さんお話伺ってもご縁の大切さを感じますね。
最後に西村さんにとってトレーナーとして大事な心得を教えてください。
西村
ずっと念頭に置いているのは常に誠実にあれって事ですね。
これは曲げないようにしています。
わからない事をわかったフリやちょっとした嘘を言うとかそういった事ですね。
これはずっと続けている事です。
結局、選手に対してもスタッフに対してもですしチームに寄り添った関係が築けるようにする事ですね。
あとは現場で死人を絶対出さない事。
僕たちが現場にいる意味はそこにあると思います。
西村
実は一度そういった場面がありました。
その選手は今でもバスケを続けているので本当に良かったです。
競技スポーツなので身体を酷使してもやらなけれならない所はあると思います。
ただ生涯スポーツとして考えた時、バスケをずっと好きでいて欲しいですし続けてほしいという思いはあります。
そのためには身体もバスケを続けれる身体でいる事。
学生のステージで燃え尽きるのではなく、そういった身体を整える事など環境面なんかも支えてあげたいなとはいつも思っています。
プロのようなトップ選手になるとちょっと違ってくるかもしれませんが。
やっぱりバスケを好きで遊びでもいいから続けて欲しいですよね。
そういった心の支えにもなれる存在では今後もいたいですね。
身体だけでなく心の支え、寄りどころにもなれる存在になりたいですね。
西村さん素敵なお話ありがとうございました。
代表トレーナー時代のお話など普段聞かない話ばかりで言葉としては単純ですが今回のインタビューはワクワクしました。
代表選手を送り出すチームの事を思っての行動は西村トレーナーの人柄を感じました。
今回も学びのある時間をいただき感謝です。
なるほど。選手を守るためにもそういった細かな情報共有が重要ですね。
西村さんがトレーナーを目指したきっかけをお聞かせください。